ここからしか見えない京都
  

第7回「菊露(きくのつゆ)のうたと美しいひとを訪ねる/大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)」

重陽の節句、そして、中秋の名月のころになると必ず思い出す女性がいます。
幕末の歌人で作陶家の大田垣蓮月(1791-1875)です。
蓮月の重陽の節句にまつわる「(きくの)(つゆ)」と題したこの歌が、私はとても好きなのです。

たなそこを うけてまつ間も ちよやへん のめは若ゆと きくの下つゆ
(棚を付けて 花を待つ間も 千年経つかのよう 飲めば若返ると聞く 菊の下露よ)

蓮月82歳の作です。男勝りで人に与え続ける人生であった晩歳の蓮月が、まるで乙女のような心で菊の世話をしている。ただ自分のためにうたう優しいまなざしの歌であることに、ほっとするような気持になります。

五節句の中で最も大きな数が重なる重陽の節句は、「菊の節句」や「大人の雛祭り」ともいわれ、菊を浮かべたお酒を飲むなどして長寿をお祈りする日。私もいつか体験してみたいと思っているのが、「菊の(きせ)綿(わた)」。菊の花の上に真綿を被せ、翌朝、露と香りが染み込んだその綿で肌を拭うと、美しく若返るという何とも雅な風習です。平安時代の宮中に仕えた紫式部も、この菊綿を藤原道長の奥さんから贈られた際、感激しつつもいかにも式部らしく遠慮をした出来事を「菊の花 若ゆばかりに 袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ」(菊の露で体を拭えば、千年も寿命が延びると聞きますが、私は若返る程度に少し袖を触れさせていただき、千年の寿命は、花の主である奥様にお譲りいたします。)と歌と日記に残しています。

蓮月が晩年を過ごした神光院の参道。蓮月は静かな西賀茂の土地で地域の人や子どもたちに愛された。

私が蓮月に最初に出会ったのは、歴史学者 磯田(いそだ)(みち)(ふみ)先生のご著書「無私の日本人」(文春文庫)の中の評伝小説でした。蓮月は容姿も麗しく大そう美しかった。しかし、それ以上に心が清く美しかった。蓮月が生業にしていた「蓮月焼」の贋作があまりにも多いのは、それを慈悲の心と大きな度量でむしろ積極的に許していたからだといいます。また、かの文人画家 富岡鉄斎(1837-1924)の近くにいて鉄斎の精神性に大きな影響を与えた人。想像も混じっているかもしれませんが、蓮月という一人の女性の物語に出会うたびに、人とはこんなにも心美しくあることができるのかと、人として女性として目を覚まさせられる思いがします。

今年の重陽の節句に、蓮月が晩年を過ごした京都西賀茂にあるお寺、神光院を訪ねました。桜並木の参道を通り、門をくぐってすぐの場所に、蓮月が住んだという小さな庵が、今も綺麗に残されています。その景色に見入っていると、緑豊かなお庭が蓮月の庵ごと見事に調和しており、今にも蓮月がにこにこと、庵から顔を出しそうな雰囲気があります。気づけば自然と手を合わせて、心の中で蓮月に語りかけている自分がいました。

蓮月をしのんで鉄斎が植えた桜の木

蓮月さん、今宵は満月も見えるはずです。
この地を守りながら、今日はご自身もゆっくりとお月見をなさってくださいね。

この記事を書いた人
定家亜由子
 
京都在住の日本画家。写生を重んじ、日本の伝統画材にて花や生きものを描く。
高野山惠光院襖絵奉納。白沙村荘 橋本関雪記念館「定家亜由子展」等、個展多数。
画文集『美しいものを、美しく 定家亜由子の日本画の世界』(淡交社) 発売中。  
 

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