記憶に刻まれている花の香りがあります。
小さくふわりとその香りが鼻をくすぐって、その花の季節の到来に気付くと同時に、何でもない穏やかな記憶が懐かしさや愛おしさと共に蘇る。
私にとってそれは、3月から4月はじめにかけてつぼみをひらく沈丁花(ジンチョウゲ)の香りです。
幼い頃から草花や生きものが好きだった私は、春の到来がとてもうれしく、母と春の草木や風景を見つける遊びをしながら歩くお散歩が大好きでした。色やかたち、ときにはその香りと共に、季節の花の名前を覚えていきました。
日本の三大芳香木の一つである沈丁花の原産地は中国、中国名は瑞香というそうで、いかにもその香りを讃えるようで美しいものです。日本語の「沈丁花」は、香木である沈香のような良い匂いがあり、古典柄である「宝尽くし」の中にも描かれる宝物、丁子(クローブ)の香りを合わせたような香りの花木という意味で名付けられたそうで、日本名においてもやはり香りに由縁があるようです。
沈丁花の甘く華やかな香りを、深くいっぱいに吸い込むと、すっと鼻に抜けて、とても心地よく、身体の芯から清らかになるような気がします。
沈丁花は低木で、花自体もそんなには大きくはありません。また、4枚の花弁のように見える部分は正確に言うと、花ではなくて、萼片(がくへん)なのだそうです。
良い香りの花はたくさんありますが、その中でも、姿よりも先に、香りによってその存在に気づく花とは、珍しいのではないでしょうか。また、香りの印象があまりに強いために、沈丁花のその見た目の美しさに気付いている人はそんなに多くはないかもしれません。
花の香りに立ち止まり視線を少しかがめてよく観察した人にだけ、小さな萼のつぼみの濃いピンク色や、それらが毬のように集まって咲く様子の可愛さの視覚的な魅力にも出会うことができる。
それも沈丁花の魅力の一つなのだと思います。
さて、ほんの少し春めいてきた3月のある日。
お散歩の途中に、私はその懐かしく大好きな花の香りに出会いました。何度か通ったことがある、お気に入りのカフェまでの道ですが、春に歩いたことはあまりなかったのかもしれません。花の香りに気付くのは初めてのことでした。
創建は1030年、東北院というお名前の由緒正しいお寺で、美しい町並みに溶け込みながらも、開放的で日当たりが良く、春の陽光を浴びた温かな雰囲気が素敵なのです。そこには素朴ながらも気品を感じる小さな門が二つあり、それらの門前のどちらにも沈丁花を植えておられるではありませんか。
門の外から覗き見ることができる梅の花も見事で、道行く人も思わず立ち止まって見ておられました。小さな鳥が梅の枝に遊びにきていて、枝から枝へピョンピョンと楽しそうです。ここでは、安心して遊べることを鳥たちも知っているのでしょう。
普段は非公開のお寺ですが、月に数回(原則、第1と第3日曜日)のみ開門されていて、その際には、御朱印の授与もされています。芸術の神様でもある弁財天をご本尊とされていることも初めて知り、大変貴重な機会に、花の香りに導かれたものと思うと、とてもありがたくうれしくなりました。今年は巳年ということで、弁財天とも深いご縁の宇賀神の御朱印も授与されています。花に囲まれたデザインがとても素敵で、宇賀神が沈丁花や梅花などの花の香りをまといながら春を告げている。そんな表現であるように私には見えました。
皆さまにも思い出の花の香りはありますでしょうか。
花の香りと共に、皆さまに訪れる春がきっと素晴らしいものでありますようにご祈念申し上げます。