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新時代の扉を開いた最後の将軍

江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が「大政奉還」を表明したのは、二条城の二の丸御殿(国宝)だ。昭和の初めまで皇室の別邸であったことから、正式名称は「元離宮二条城」で、ユネスコの世界遺産に登録されている。

国内の城郭に残る唯一の御殿として国宝に指定されている二条城二の丸御殿

初代将軍・徳川家康が御所の守護と、上洛した将軍の宿泊所として築城した。壮麗な城に天皇を迎えることで、江戸幕府の支配力を知らしめたともいわれる。3代将軍・家光の時代には大改修が行われ、本丸や二の丸、天守閣などを造成。さらに時の天才絵師・狩野探幽ら狩野派によって、絢爛たる障壁画が描かれた。つまり二条城は初代から15代まで、江戸幕府の栄枯盛衰を見つめてきたことになる。

二の丸御殿は遠侍(とおさぶらい)、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟で構成され、部屋数は33室と広大だ。主室となる大広間には将軍が対面する書院造りの一の間、さらに一段下がった二の間、透かし彫りの欄間が見事な三の間、障壁画の代表格「松鷹図」が描かれた四の間があり、さながら美術館の様相を呈する。城内の現在の障壁画は模写だが、国の重要文化財1016面は城内にある展示収蔵館で年4回、展示を変えながら公開されている。

慶喜が大政奉還を表明した二の丸御殿の大広間(二の間から一の間)
欄間彫刻や松や鷹の障壁画など、将軍の住まいにふさわしい豪華絢爛さ

幼いころから才知に優れていた慶喜は、将軍の世継ぎとして若くして一橋徳川家を相続するも、一橋派と紀州派の将軍継嗣問題に巻き込まれる。さらに将軍職に就任した後も、朝廷側と幕府が対立する激動の時代を奔走した。戊辰戦争が勃発すると、江戸への総攻撃を避けるため、新政府軍に恭順を表し、江戸城の明け渡しに応じた。その後、政治的野心は持たず、静かに余生を送ったという。かつての幕臣・渋沢栄一は、大戦争を起こさせない英断を称賛し、慶喜の復権と汚名返上に尽力した。

【放送時間】
京都浪漫 悠久の物語
「徳川慶喜~江戸幕府最後の将軍の軌跡と功績~」
2022年2月7日(月) よる8時~8時53分
BS11(イレブン)にて放送

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